2007年度のさんぽ †前期 †役員と係の体制 †役員・係の一極集中化がさらに進んだ。主要な係は、昨年度から留任した記録係を除けば、すべてが役員の兼任となり、役員・係一人当たりの負担はさらに大きなものとなった。サークル自体が大所帯になってきたため、役員の負担は相当なものになった。ただし、細部の仕事を分散して行うことは、十分でないにしろ定着してきた。例えば、新歓では新歓係がすべて采配を振るうのではなく、説明会、ビラ作成、ビラ貼り、飲み会などをそれぞれの担当者が行う、というようにである。この結果、大きな破綻には至らず、なんとか運営が継続できる状況になった。 メンバー構成は高齢化がさらに進んだ。3年生以下19人に対し、4年生以上が23人と、ついに若年層と高年層の人数比が逆転してしまった。しかし、この年度は新入生が前期で7人入部し、定着率も高かったため、少子高齢化の進行を鈍らし、一定の歯止をかけた格好となった。 大多数の団塊の世代(03年度入部)から見て、彼らは卒業後または大学院進学後に入部したはじめてのメンバーとなった。したがって、2008年度卒・修くらい以前のOB・OGの中には2007年度入部生を境として「世代の分かれ目」と感じる者も多い。 2007年度の役員および主な係 †
2007年度前期新歓終了後(2007.7)のメンバー構成 †
夏合宿(常念山脈縦走、8月17日~20日) †2006年度の規模縮小から一転して、参加人数10人、3泊4日というそれまでの規模に回復した(幹事・大畑)。中房温泉から入山、燕岳から常念岳、蝶ヶ岳を経て上高地へ下山するというこれまでにない長距離の縦走であった。4日間とも天候に恵まれ、新旧のメンバーがそろった充実した合宿となった。 ポスト夏合宿の岐路 †2006年度に「さよなら廣澤邸」として美浜最後のポスト夏合宿を行って以降、今後もポスト夏合宿を実施するのかどうか、実施するとすればどのようなものにするか、2007年度の夏休み前になっても方針が決まっていなかった。そのような中、9月になって幹事の西がでのポスト夏合宿を企画した(9/26~28、金沢)。参加者は6ないし7人(※)で、恒例の自炊をしつつ、兼六園などの観光をするというものであった。 夏休み中に急遽決定されたために準備と広報が不十分であり、特に新入生にポスト夏がどういったものがうまく伝わっていなかったため、若い世代の参加がなかったなどの反省点が残された。しかし、2008年以降もポスト夏は継続して実施されているため、その意味でこの年に途切れさせず実施した意義は大きいと思われる。 (※)正確な実施記録が残っておらず、計画書段階の人数。 後期 †例会場所の変更(22番教室→S16番教室) †これまで、例会はほぼ一貫して全学棟の22番教室を使用してきたが、2007年の後期より全学棟の耐震改修工事のため、部屋が使用不能になった。そこで、2007年10月の例会から全学南館のS16番教室が使用されるようになった。2008年2月~3月は春季休業で全学南館も使えないため、図書館グループ研究室4が使用された。 OB・OG会の設立へ向けた動き †OB・OGの増加に伴い、OB・OG会の設立が検討されることになった。OB・OG同士の親睦や現役とのパイプを作る必要が大きくなっていたためである。富田を中心に少人数で、2007年10月~11月に3回のOB・OG会立ち上げ委員会が開催され、会の規約や運営の方法などが話し合われた。 そして、2007年11月10日に「OB・OG会立ち上げ飲み会」が開催された。OB・OG会の発足は翌2008年4月1日であるが、この飲み会は実質的に最初のOB・OG総会となった。当日は、午前中に美浜の廣澤家の農園でみかん狩りが行われ、その後名駅の「わが家」(プロジェクタの使用できる居酒屋)に移動した。その場で、初代OB・OG会会長(松浦)と同会計(広木)が選任された。 また、これにあわせて初めてのOB・OG会会員名簿と同会誌が戸田により作成された。 旗、3代目へ †2代目の旗の余白が少なくなってきたため、3代目の旗が作成された。2007年12月9日に、石本の家で旗の作成会が実施され、同12月16日の「旗山」(12月山、山係・藤井)で披露された。旗のデザインは中井が担当した。 追いコン †2008年3月7日~8日に大見いこいの広場(滋賀県木ノ本町)で2007年度追いコンが実施された(幹事・大畑)。ヴィラと呼ばれる宿泊棟を借り切り、スポーツや長浜の散策を取り入れた合宿的要素のある行事となった。また、合宿行事に参加できない者のために、2日目の夜には名古屋で二次会が開催された。以降、追いコンは毎年このスタイルで実施されている(2010年度現在)。 この追いコンでは、6人(修士2、学部4)が一気にOB・OGとなり、OB・OGの数が2桁となった。 |