2004年度のさんぽ

サークルの形を模索するので精一杯だった2002年度、形を整えるのに奮戦した2003年度に続き、2004年度はほぼ形成された形について、よりよいものにしていくことが課題となった。

前期

役員と係の体制

2004年度の役員・係は、下表のとおり、3年生の部長の下に、昨年度入部した「団塊の世代」が大いに活躍する体制となった。また、メンバー数が増加した(少なくとも名簿上は30人近くになった)ことにより、より安定した運営ができるようになった一方で、より組織としてのまとまりが求められるようになってきた。裏返せば、役員や係のメンバーをまとめていく力が必要になってきたということである。

2004年の役員・係

部長・連絡松浦[宏](農3)
副部長・名大祭宮田(工2)
会計廣木(法2)
記録松原(農2)
春新歓松浦[愛](農2)

春新歓終了時(2004年6月)のメンバー構成

1年241617
2年521123811
3年13404
4年11112
M31404
D1101
9664211191029

2年目の名大祭

前年度に引き続き、名大祭では「峠の茶屋」を出店した。昨年度からの最も大きな変更点は、規約により(?)文学部棟が使用不可能となり、出店場所が教育学部になったことである。変更の過程では、文学部と教育学部をつなぐ文系共同館や共通棟(現在の全学棟)4Fなどの案もあったが、集客性に問題があることから名大祭実行委員と交渉を重ね、教育学部棟に会場を獲得した。以後、この場所が「峠の茶屋」の定位置となる。

部屋の決定以後は、垂れ幕の申請がしておらず掲示できなかったことなど一部でトラブルがあったほかは,おおむね順調に経過した。当日は160人を超える来客と28,800円の売上を得た。また、補助金を含めた純利益も12,000円あまりとなった。

プレ夏合宿と廣澤邸問題の浮上

2004年度のプレ夏合宿の計画の過程では、開催地についての議論があった。前年度まで好意で「廣澤邸」を貸し出していた廣澤が、この合宿前に大学院入試を控えていたことにより、参加できなくなる可能性があったためである。そもそも、廣澤の院試を除いても、廣澤の卒業後の開催地を探す必要性があった。「廣澤邸」に代わる候補地として、同じ知多半島の民宿・キャンプ場や名大の保養施設のある木曽福島などが挙がった。しかしながら議論は深まらず、さんぽ内ではできるならば廣澤邸を使いたいという声が大きくなっていった。そのうちに廣澤がプレ夏開催以前に大学院を決めたため、願いどおりそのまま継続して「廣澤邸」が使用されることとなった。

この合宿には15人が参加し、海上タクシーを貸しきって佐久島に遠征するなどして盛り上がった。しかしながら、「廣澤邸」に代わるような魅力ある合宿会場の検討は棚上げとなった。2006年になってもこの問題は解決していない。メンバー内にある論調としては、「プレ夏合宿はそもそも(魅力ある場所である)『廣澤邸』の存在によって成立していたのだから、それが使えなくなった時点で廃止にしてもよい」というものから「今や『プレ夏』の開催そのものに意義があるのだから、やはり別の場所を検討すべきだ」というものまである。プレ夏合宿(春合宿も含む)の存在意義から問い直す時期に来ている。

夏合宿と意識改革

2004年の夏合宿は槍ヶ岳登山を行った。この合宿に至るまで、幹事の変更が2回あった。すなわち、当初の幹事は松原(当時2年)であったが、用事で参加できなくなったことから富田(当時M1)が引き継ぎ、あまり上の代が幹事をするのもよくないと言うことで、部長(当時3年)に変更になった。こうした変更のたびに計画の引継ぎがうまく行われないという問題があった。合宿は大過なく経過したが、この合宿の反省を行ったところ、そのほかにも様々な問題点が厳しく指摘された。たとえば、リーダーの判断が適切でない、食事の計画がずさん、メンバーの経験不足などである。

そもそも以前から、メンバー内から「さんぽの危機管理体制や意識がなまぬるい、このままでは危険だ」という指摘が挙がっていた。以後、例会などでいくつかの議論がなされ、山の知識に勉強会も継続されていたが、これが根本的に改善されないまま夏合宿に至り、一挙にこれらの問題が露呈したともいえる。

こうした問題を受けて、リーダーの養成に力を入れることや山係がコース地図を配布すること、山ごとの反省の義務化が行われた。また、11月には山係の計画から帰宅後の反省までをまとめた「山係マニュアル」が作られた。

この問題意識は翌年度(2005年度)前期の定例山の計画に影響し、この期の山は、訓練のためにこれまでよりもやや難易度の高い山が選択される傾向となった。一方で、高い山ばかりを選ぶことに対する批判的な意見も聞かれた。このように、2004年度の前期は、低い山を楽しむというコンセプトと、高い山を登るときにも通用する技術や危機管理体制を作り上げること、の2点をいかに両立させるかが、さんぽの今後の大きな課題であることを意識させらることになった。

後期

新ホームページへの移行

さんぽは部室を持たないことから、例会でカバーしきれない情報の交換をWeb上(ホームページ、掲示板)またはWebを介して(メール、メーリングリスト)行っている。また、情報を保管する場所もないので、電子化できる情報は同様にWeb上で保管し(2005年度よりのUP掲示板や部内専用写真など)、共有することが活動の円滑化につながっている。しかしながら、2004年までのさんぽのWeb環境は無料でレンタルしたものであったため、使える容量も乏しく、自由度も低かった。メンバーも増加し、活動も活発化した2004年度の後期には、こうした環境が手狭になり、また不自由さが目立つようになっていた。

そこでレンタルサーバを借りることが検討され、2005年1月より新しいWeb環境に移行した。HPの移転と新しいMLの作成が行なわれた。大きな変化としては容量が格段に増えたこと、自由にCGIが設置できるようになったことが挙げられ、写真の保管や資料のWebへのアップが容易になった。なお、これに合わせてHP係も富田から宮田に引き継がれた。

この議論は2004年12月上旬より行われたが、Web環境の仔細に渡る部分の討論がだらだらと続いたため、多くの人が理解できる内容にするべきであると一部で批判も出た。

初のスキー企画

1月上旬および2月下旬の2回に渡ってスキー企画が自主企画として立てられた。さんぽの企画としては2002年度の冬の企画として練られて以来であり、実行されたものとしては初のスキー企画と言える。それぞれ加藤・宮田が企画し、小丸山・白馬岩岳へ行った。

選挙制度の制定

メンバーの意思を反映して公正に役員を選ぶという視点から、選挙の実施が検討された。選挙についての決まりが作られ、来年度分から、部長・副部長・会計の3役については、選挙によって選ばれた者が就くこととなった。選挙管理はその期に卒業するメンバーが行うこととなり、初代選管は廣澤が担当した。部長について、当初は立候補予定者が2人いたが、最終的には他の役も含め全員が信任投票となった。最終的な立候補者は部長=宮田、副部長=戸田、会計=滝藤であった。2005年1月17日に立会演説会と投票が行なわれた。即日開票が行なわれ、全員が信任された。

初の廣澤低外での春合宿

廣澤が大学院進学の準備を行なうことから、春合宿で「廣澤邸」が使えなくなることが確定した。そのため、プレ夏合宿で棚上げされていた代替候補地が、幹事の加藤を中心に再び検討されることになった。しかしながら議論はあまり進展せず、最終的には幹事が岐阜県多治見市の「三の倉市民の里 地球村」のログハウスに決定した。春合宿は3月2日~4日に行なわれ、地球村から近い東海自然歩道を歩くなどした。企画は成功であったが、これで完全に廣澤邸から卒業したとは言えず、廣澤がOBとなって以後も廣澤邸は継続して使われた。「廣澤邸」問題の棚上げは2006年現在でも続いている。

初の追いコンとOB・OG

さんぽが出来て以来初の卒業生(磯貝・廣澤)が出るのに伴い、2005年3月16日~17日に「廣澤邸」で初の追いコンが開催された。

さんぽの正式名称「仮決定」

2月28日に行なわれた例会で、2005年度の名大祭についての議論が行なわれた。その中で、サークルの正式名称(表記)が検討され、日本語名称:名古屋山歩きサークル「さんぽ」、英語名称:Nagoya Yamaaruki Circle SAMPO とすることが「仮決定」された。このことは、2005年の名大祭に限らず、以後も続けて使うことが承認された。例会参加者が少数であったため、議事録では「仮決定」との表記になっている。しかし、以後、サークルの名称に対する議論は行なわれておらず、また、この表記が2006年現在広く周知されていることから、実質的な決定とみなすことができる。

なお、それまでは日本語名称に「SAMPO」や「サンポ」が使われることもあるなど、公式に統一された名称が存在していなかった。これを受けて、来年度(2005年度)、さんぽのロゴが作られることになる。


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Last-modified: 2007-07-14 (土) 20:11:01 (6139d)