2003年度のさんぽ

2003年の状況を書き込んでください。

前期

「団塊の世代」の入部

2003年3月に行われた地獄の細道(文サ連・体育会主催の入学手続きに合わせた新歓行事)では、少ない人数で最大限の効果を挙げることを目標に、多くのビラを新入生に配布、サークルのPRに努めた。また、4月の新歓期には多数のビラを共通棟(現在の全学棟)に掲示するとともに、月・水・金の昼休みに合計6回のサークル説明会を開催した。

その結果、農学部・工学部を中心として多くの見学者が訪れ、最終的には一挙に12名の1年生が入部した。その占める割合は、当時のメンバーのおよそ半数に達している(下表参照)。以後、この2003年度入部生はサークル活動の中心的な役割を担ってきたことから、後に「団塊の世代」と呼ばれるようになった。なお、この世代が定着した理由として、入部後すぐに名大祭などの係りを持ってもらい、積極的にサークル活動に関わってもらったことが大きいようである。

2003年前期(春新歓後)のメンバー構成

人情合計
1年532110004812
2年21100110516
3年31001000325
4年01010000202
00000001101
合計106322111151226

(ML登録者数)

サークル運営の改革

「団塊の世代」の入部により、例会や山歩きの参加人数も増加し、存続さえ困難にみえていた状態が一挙に解決された。その一方で、これまで以上に組織的なサークル運営が必要となった。また、多くの人数が仲良くなり、楽しくサークル活動を続けられるような仕組みを作ることも急務となった。しかしながら、当時のさんぽにはこれらを満たす十分な仕組みがまだ整っていなかった。

これらの問題を解決するため、この時期、以表のように決定された新しい役員・係を中心に新メンバーを交えて対策が練られ、次のような一連の新しい運営方法や仕組みが導入された。新しい役員・係は前述のように設立者3人と前年度秋新間組を中心とするものになった。

1)メーリングリストの作成(4月4日)

部室のないさんぽでは、これまで、連絡は部長や当該係による個人メールに頼っていた。しかしながら、メンバー間で個人メールは手間がかかる上、人数の増加には対応しきれないという問題点を持っていた。そこで、連絡係であった澁谷を中心にメーリングリストの導入が検討され、新歓のはじまる4月上旬にQuickMLというフリーのMLを利用して運用が開始された。5月上旬までにまずは在来メンバーが入り、順次新メンバーも入った。これによって、連絡の密度は飛躍的に向上し、以後、さんぽの連絡体制として欠かせない存在となった。また、澁谷はこれに加えて、例会の開催を前日に報せるメールの自動送信システムも開発したが、これは利用されないままだった。

2)例会の開催方法の変更(4月10日例会)

例会の曜日が「隔週水・金」とされていた昨年度の開催方法は、いつが水曜(または金曜)であるか混乱を招く、曜日が固定されていたほうがバイトなどの時間を考慮しやすい、といった意見が多く出るようになった。このため、当時のメンバーが一番集合しやすい「毎週月曜日18:00~」に変更された。会則によると、例会の曜日は「期ごとに再考する」とされているが、それ以後2006年現在まで曜日・時間が見直されたことはない。なお、移行期間として2003年4月中の例会はすべて金曜日に行われた。

3)「サブ例会」(後の茶話会)の創設(5月19日例会)

例会の曜日を固定したことにより、例会の曜日はどうしても都合が悪い、というメンバーが出てくることが予想された。また、たまたま例会に参加できなかったメンバーが補完的に情報を得る場や、メンバーどうしが交流する山や例会以外の場があってもよい、という意見が出されるようになった。そこで、週の中日である水曜の昼休みに「サブ例会」を設け、情報交換・交流の場とするようにした。2003年5月の名大祭準備にかかわる繁忙期に考案されたものであるが、以後も継続され、後に「茶話会」と名称変更され、現在に至っている。

4)山係制度の導入(6月30日例会)

これまでの「連れて行ってもらう山歩き」から脱却し、「自主的な山歩き」を目指すにはどうしたらよいか、ということが話し合われた。結果、それぞれの山に幹事に相当する「山係」をつくり、これをメンバー間で回してはどうかということになり、7月から導入されることになった。7月は1年の清水(池田山)、次の9月は1年の松原(道樹山・弥勒山)というように、新入生が積極的にサークル活動に参加するための土台の一つになった。

このほかに、在入会届けを新設しメンバーの把握の徹底を図ったほか、2002年度後期より行われていた勉強会も名大祭後に続けられた。また、この時期文サ連加盟(山歩きのサークルなのに体育会でない、というところがいかにもさんぽらしい)をめぐる討議も行われたが、費用対効果が期待できない、時期尚早である、という点で凍結された。

2003年4月当時の役員・係

部長後迫(農3)
副部長(部長補佐・飲み会手配)廣澤(工3)
連絡(新入生対応・名簿管理・ML管理)澁谷(工4)・川島(法2)
会計(お金の管理)野沢(農2)
企画(各種合宿の企画)磯貝(農3)・粕谷(農3)
例会(場所確保と議事進行)河野(理2)・青木(工2)
名大祭(名大祭の計画)富田(文4)・松浦(宏)(農2)

名大祭への初出店

サークル設立者の一人である富田は、2003年度が始まる少し前、2002年度後期の危機的状況の理由の一つとして、「メンバー全体で何かを作る」という体験がなく、サークルのメンバー間の結びつきが弱いせいではないか、と考えた。これを解決する手段として、大学祭である「名大祭」に参加し、今後入部する新メンバーと一緒に出しものをするというのはどうだろうと思いつき、2002年度最後の例会に提示したが、議論が進展しなかった。

そうしている間に名大祭実行委への企画の期限ぎりぎりとなってしまい、廣澤に頼んで出先の西表島から名古屋にいた廣澤に電話で頼んで、独断で決定した概要・名称で申し込み手続きを行った。そのときの思いつきの企画が「屋内の喫茶店」で、名称が『峠の茶屋』であった(これは2006年現在でも変わっていない。その場の勢いというか、思い付きとは恐いものである)。

このような経緯で2003年度からさんぽは名大祭で喫茶店「峠の茶屋」を出店することになったが、問題は山積していた。

まず会場についてである。古くから名大祭に参加している団体は、毎年実質メイン会場の共通棟(現在の全額棟)の一等地を利用しており、その場所は既得権益で守られていた。したがって、さんぽのような新しい団体が使用することができそうな場所は、非常に不便な場所か、別の離れた場所しかなかった。実行委と掛け合ったところ、文学部の教室が提示された。そこはメインルートからはやや離れているものの、そのお陰で「静かである」ということ、「冷房が使える」ということがわかり承諾した。これらのメリットを打ち出し、ビラなどで客を誘導する作戦をすれば、なんとか企画として採算の取れる店が成り立つのではないかと思われた。

この企画はまた、サークルのPRの場でもある。そこで、単にお茶を出すだけではなく、サークル活動の特徴を生かした何かがしたかった。そこで、これまでの山歩きで撮影した写真を引き伸ばして壁に掲示し、「ギャラリー喫茶」とすることにした。当初は印画紙に引き伸ばすことを考えて、予算もそのように請求していたが、最終的にはインクジェットプリンタを用いて引き伸ばす方法に決定された。絵の品質は落ちるが、安価により大きく引き伸ばすことができ、見栄えがする。

喫茶店ということで、どのようなお茶を出すのかも問題だった。この点も話し合われ、ハーブティーと和菓子が中心となるメニューになった。

企画のおおよその像は従来からのメンバーで決めたが、以降の詳細な点を煮詰めるのはすべて「食品」「備品」「会場」「立て看板」といった班に割り振り、入ったばかりの新メンバーが役割を持って動く体制となった。これは、従来からのメンバーが圧倒的に少なかったという事情によるものだが、結果として新メンバー(団塊の世代)の定着が一気に促進するしかけともなっていた。このように、名大祭の企画によって、全体としてサークルが活気に満ちた状態となった。2003年の名大祭はさんぽにとってひとつの大きな転換点であった。

6月7・8の当日には、場所の不利にも関わらず、多くの来客があった。結果、20,029円(含名大祭実行委援助)の黒字が得られた。その一部で、サークル用のコンロとコッフェルを購入した。

2年目のプレ夏合宿と夏合宿

2003年も継続してプレ夏合宿(7月24~26日:参加17人)と夏合宿(8月20~23日:参加11人)が行われた。

プレ夏合宿(幹事・後迫)は、昨年と同じく上野間で行われた。この際、松浦より自転車で大学から上野間へ行く企画が提案され、1年生を中心とする数人がこの企画に参加した。さんぽにおける自主企画の走りともいえる企画であり、また初の自転車による企画であった。プレ夏合宿では、夜間に知多半島を横断する「ナイトハイク」が行われた。翌朝到着した三河湾の河和からは、船で日間賀島に渡り散策した。以降、3年間にわたって三河湾の島をこの合宿で訪問することになる。

夏合宿の計画は幹事の磯貝によって進められ、北アルプスの白馬岳に登頂した。日数は昨年より1日増えて3泊4日となった。

後期

例会出席率の低下

後期に入り、例会の出席率の低下が目立つようになった。その理由として、「団塊の世代」のほとんどが兼部をしていてそちらが忙しくなってきたことや、冬の登山計画が立てにくいこと、名大祭などの大きな行事がないなどが挙げられる。逆に例会の常連出席者の存在が目立つようになり、いつもいる4人が「さんぽ四天王」と揶揄されたほどである。ただし、在籍者数が昨年を大きく上回っていたことや、毎月の山の参加者がある程度確保されていたことなどから、昨年ほどの危機感はなかった。

気楽に山を歩くというコンセプト上仕方がない面もあるが、このとき以降さんぽは常に例会の出席率の低さと言う問題を抱えることになる。この時期、現状に会則を合わせた形で、一時的に「例会は月1回定例山のある月曜、それ以外の月曜は『茶話会』に格下げする」ということも行われていたようである。その詳しい経緯については筆者(富田)の手元に資料がなく、また、記憶もほとんどないため詳らかでない。しかしながら、格下げされた月曜夕刻の「茶話会」は人がほとんど集まったためしがなく、実質的に休みであった印象が強い。

自主企画の活発化

この時期、例会の出席率が低下する一方で、サークル内におけるメンバーの自主的な活動が活発になってきた。2003年後期に行われた自主企画としては、

  • 尾瀬・桧枝岐(日程:9/27~30・幹事:松浦[愛])
  • 泡盛飲み会(10/20・松浦[宏])
  • キノコ狩り(11/3・松浦[宏])
  • みかんがり(11/22・後迫[利]→富田)
  • 熊野古道(3/16~18・松原)

がある。すでに書いたように、前期にも自転車で上野間に行く企画や、喫茶マウンテンに行く企画があったが、様々なメンバーが定期的に自主企画を立てるようになったのは後期からである。内容も、何泊かする遠方に出かける企画や山歩き以外の企画など、多様化してきた。このうち、みかん狩りは翌年以降も続く恒例行事となり、2006年で4回目を迎えた。例会が低調にもかかわらずこうした企画が活発化した背景には、MLの普及が大きく貢献していたことは間違いない。

2回目の春合宿

3月に行われたさんぽ2回目の春合宿は、やはり上野間の廣澤邸を拠点とした。この年は、南知多町の名鉄内海駅から、富士ガ峰を経て知多半島の先端である羽豆岬まで歩いた。また、2004年度にむけて、計画の話し合いも行った。この年度までは選挙制度が存在せず、役員・係もこの合宿でおよそ決められた。


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Last-modified: 2007-07-14 (土) 20:10:37 (6139d)