2002年度のさんぽ

2002年のさんぽの状況を書き込んでください。

前期

草創期の状況

とにかく手探り状態の始まりであった。発起人である富田が澁谷を呼びかけ、その仲介役の廣澤を巻き込む、という形で構成されたのが創立メンバーの3人である。サークル設立とメンバー募集のビラは、4月に共通棟(現在の全学棟)に張られ、4~5月にかけて説明会が行われた。

5月現順に行われた第1回例会(ごく初期はミーティングと呼んでいた)の資料によると、「月1日帰り山」「公共交通機関利用」「参加自由」「掛け持ち可」など、現在に通じる文言が書かれている。なお、名前はまだ存在せず、資料にはただ単に「山歩きサークル」と書かれていた。

例会は、第1回例会で「原則月2回、第1水曜の15:00~、第3木曜の16:30~」と決められた。しかし毎回決まった場所ではなく、学内を右往左往していた。

サークル活動として実質初回となった第2回の山歩きは初回例会にて海上の森と決まった。当初6月に行われる予定であったが、雨で順延となり7月にずれ込んだ。また、できるだけ多くの参加者を確保するため連続した2日間で同じ場所を歩くという、現在では考えられない方法で計画が立てられた。

2002年6月当時の役員・係

世話人(現・部長および副部長に相当)廣澤(工2)・富田(文3)
連絡(現・ML係および新歓係に相当)川島(法2)
企画(合宿や飲み会などを企画立案する係)小川(農1)・佐藤(法1)

プレ夏合宿開催とサークル名の決定

当時、メンバーは集まりつつあったものの、まだ皆よそよそしく、サークルらしい賑やかな雰囲気とは程遠かった。この原因を廣澤・富田で検討したところ、「現状ではみんなで仲良くなる場所と時間が圧倒的に少ない」という見解に達した。部室がなく、隔週の例会だけでは打ち解けるきっかけに欠如していたのである。こうした中、廣澤の言った「実家に使われていない家があるから、そこで合宿をやるとといいかもしれん」という冗談が、プレ夏合宿(通称プレ夏)開催の直接的な発端となった。

経緯からもわかるように、プレ夏の最大目的はみんなで打ち解けて硬い雰囲気を打ち壊すことであった。また、サークルとしてのまとまりを作り出するために、サークルの正式名称を決めること、山頂で掲げるサークル旗を作成することが具体的な目標として掲げられた。

当初は女性メンバー2人を含めた8人が参加する予定であったが、最終的には男性メンバーばかり6人が上野間・廣澤邸に集合した。以後、廣澤邸は2006年9月の最終回に至るまで4年間にわたって利用されることとなる。「さんぽの夏の行事と言えば上野間に行くこと」という伝統がここに生まれた。

プレ夏の内容は、バーベキュー、海水浴、オレンジラインによる知多半島横断などであった。知多半島横断は炎天下に行ったため皆疲労困憊し、そこに酒が加わったため、夜に予定されていた名称決定・旗作成が危ぶまれたがなんとか決定・完成した。名称は「山を歩く」という意味と「散歩のように楽しく気軽に」という意味を込めて「SAMPO」とされた。ただ、当時は現在正式名称となっている平仮名表記の「さんぽ」ではなく、アルファベット表記であった(これに関しては特に理由がなかったように思う)。また旗は、廣澤の知人から譲ってもらった布に緑のポスカで「SAMPO」と書いたシンプルなもので、2005年秋まで使用された。また、このときなんとなく使った緑色が、今後さんぽのイメージカラーとしてよく使われるようになった。

初の夏合宿

夏合宿は設立当初からあった計画のひとつで、「夏休みに高い山に登りに行く」という内容の合宿である。初心者でも安全に参加でき、かつ、高山の雰囲気を楽しむことができる場所として、第4回例会(7/3)で北アルプスの蝶ガ岳に決定された。上高地に入った初日に雨にたたられ、雷の心配もあったことから登頂断念も議論されたが、2日目は幸いに好天に恵まれ、徳沢から長壁尾根を伝って2669mの蝶ガ岳へたどり着いた。ブロッケン現象も見られたが、以後、さんぽの高山ではしばしば目にすることになる。事故や怪我もなく成功裏に終わった。

2003年夏合宿の行程(3泊4日)

8月19日(月)名古屋→[名鉄バス]→大正池→徳沢ロッジ
8月20日(火)徳沢ロッジ→長壁尾根→蝶ガ岳ヒュッテ
8月21日(水)蝶ガ岳ヒュッテ→蝶ガ岳(ご来光)→上高地BT→[名鉄バス]→名古屋
8月22日(木)予備日

初期のさんぽが抱えた問題

プレ夏合宿、夏合宿を経て、サークルとしての形は徐々に固まりつつあった。ただし、この時点においてさんぽの危機管理能力や意識は低く、スニーカーでの登山、初心者だけのパーティー編成、応急セットなし、というように後から考えれば多くの問題をはらんでいたことも指摘しておくべきである。また、山係制度も存在しておらず、サークル運営が手探りだったこともあって、この時点では総じて「連れていってもらう」的な山歩きがほとんどであった。

後期

初の組織的な新歓

2002年10月から11月にかけて、新メンバーの募集活動を行った。春の設立時に行われた募集は組織がまったく出来上がっておらず、「サークルとしての新歓」というより「サークルの立ち上げをするメンバーの募集」という性格が強かったため、この秋の新歓はサークル初の組織的な新歓活動といえる。活動の中心はビラ張りによる広報と説明会の開催で、この方法は2006年現在まで大きな変化はない。また、このほかに11月に新歓山歩き(定例山とは別に行った:東谷山)と新歓コンパを行った。この活動で、新しく3名のメンバーが入部した。

2002年10月当時(秋新歓前)のメンバー構成

他大合計
1年1221000336
2年1000102224
3年1000010202
合計32211127512

(2006年現在の基準にならい、1回でも定例山に参加したメンバーの数)

役員・係の見直しとあたらしい運営方法の考案

メンバーが増加したことへの対応や、前期の活動で判明した運営の不備を改善するため、後期に入って役員・係の構成や、例会などサークルの運営方法が見直された。

まず、例会の開催方法について、前期は「第1水曜と第3木曜」と月2回であったものが、「隔週で水曜と金曜の繰り返し(実質毎週1回)」と改定された。メンバーどうしの交流を促進し、曜日を工夫して、兼部者や忙しいメンバーを含めたできるだけ多くの参加者を呼び込むことが、この改定のねらいであった。メンバーは水曜の例会(水曜会)と金曜の例会(金曜会)のいずれかに出席すればよいことになっており、出席する曜日によって話し合いの情報に格差が生まれないようにすることも工夫された。

単調になりがちな例会に変化をもたらすため、水曜会と金曜会の性格を分ける試みも行われた。水曜会では、担当者を決めて山歩きに関する座学が行われた。この試みは後の「勉強会」につながってゆく。また金曜会では、山歩きの反省や予定の話し合いが行われた。しかし、この試みはあまりうまく働かず、例会離れは進む一方で、後述するようについには例会自体が機能しなくなるに至った。例会はこの頃すでに悩みの種だったのだ。

当時の話し合いでは「メンバーどうしが打ち解けるために、毎月最後の例会の後にはご飯を食べに行くことにする」などということも大真面目に話し合われていた。このように、メンバーどうしの交流が、まだ著しく少なかったのである。

このほか、2002年後期から始まったことをいくつか挙げる。まず、これまでに取り決めのなかったコピー代などに使われる会費の設定(半年500円)が行われ、これを管理する係として会計が新設された。また、会の運営方法として参考にしていた天体研究会の事例に倣って、「期の初めに半年の詳細な予定をすべて立ててしまう」ことも試みられた。しかし、出入りの激しいサークルであったさんぽではほとんど定着しなかった。2006年現在でも「予定はその都度立てる」という状況にある。

2002年10月当時(秋新歓前)の役員・係

まとめ記録(部長および副部長に相当)富田(文3)・廣澤(工2)
連絡(MLおよび新歓係に相当)川島(法1)
企画渉外(各種計画の立案)澁谷(工3)・佐藤(法1)
会計小川(農1)
水曜会(水曜日の例会の会場確保)廣澤(兼任)
金曜会(金曜日の例会の会場確保)河野(理1)

「冬の時代」と初の春合宿

以上のように、サークルとしての組織固めの時期であった2002年後期であるが、組織固めがはかどらないどころか、後半になると深刻な問題さえ発生した。草創期からのメンバーの多くが、後期後半にはほとんどサークル活動から離れてしまったのである。これに伴って、例会は参加者が少数で推移し、3名などいうこともあり、実質的に機能しなくなった。そればかりか、2003年1月の山が参加者が1名(実質0名)で潰れたり、予定されていた春合宿(スキー)の計画が立たなかったりなど、活動の存続自体が危機に陥った。この時代は後に「冬の時代」と呼ばれるようになる。

この危機を救ったのが秋新歓での新メンバーと、少し遅れて年度末に入部した新メンバーである。この中から、2代目及び3代目の部長や会計、次年度夏合宿幹事をはじめとして、2003年~2004年の活動を支える中心的メンバーが多数生まれることになる。参加者少数で中止に追い込まれた1月の定例山に続いて行われた2月の定例山(猿投山)は、創立メンバー2人+年度末入部メンバー2人(入部したばかり)の4人という、ある意味土壇場の組み合わせでつないだ。

したがって、この年度末に行われたさんぽ初の春合宿(当時はスキー企画としての春合宿の計画があったため、ポスト春と呼ばれていた)は、サークルの建て直しを図る上で重要なものとなった。会場は夏合宿でも使用した美浜・廣澤邸であった。参加者は創立メンバー3人、前期よりのメンバー1人、秋新歓以降のメンバー2人の計6人と土壇場であることには変わらなかったが、いかに活動をつないでいくかが重要だった。

春合宿の目的は、「プレ夏と同じくのんびり親交を深める」ということと、「来期の計画を練る」というものである。このコンセプトは現在まで受け継がれている。この年の春合宿(2月24日~2月26日)では、メイン行事として内海から羽豆岬(知多半島先端)までのハイキングが行われた。また、地獄の細道に参加して多くの新入生にアピールをすること、来期の計画、来期の係と役員が話し合われた。また、この合宿と前後して来期から名大祭に出店することが決められた。

(文中敬称略)


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Last-modified: 2007-07-14 (土) 20:09:53 (6139d)